(和歌山市のグランヴィア和歌山で開かれた「沙也可(金忠善)歓迎レセプション、12日夜)
(和歌山市の和歌浦の東照宮で13日午前行われた沙也可顕彰碑の除幕式)
(13日午後、和歌山市のきのくに志学館で開かれた「沙也可日韓国際シンポジウム)
秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、投降して朝鮮軍に加わり日本軍を撃退したとされる人物「沙也可・さやか(金忠善)」をテーマにした日韓国際シンポジウムが13日午後、和歌山市のきのくに志学館で開かれました。シンポジウムには、韓国から沙也可研究家のほか、今も韓国大邱市郊外の友鹿里(ウロンリ)で暮らす沙也可(金忠善)の子孫一族ら数十人も参加、前夜から和歌山市内のホテルで歓迎レセプション、13日午前には和歌浦の東照宮で沙也可顕彰碑の除幕式が行われました。私もこの沙也可という将軍の存在がずっと気になっており、2日にわたって参加してきました。
(顕彰碑除幕式であいさつする作家の神坂次郎氏)
沙也可は、文禄・慶長の役(朝鮮においては壬辰倭乱)の際、加藤清正の配下として朝鮮に渡りましたが、投降して朝鮮軍に加わり日本軍を撃退したとされています。出身地など不明な点も多いのですが、その伝記とされる『慕夏堂文集』では、1592年4月に加藤清正の先鋒部将として釜山に上陸したが、すぐに朝鮮に憧れて3000人の兵士ととともに朝鮮側に降伏したのだそうです。
沙也可は火縄銃などの技術を朝鮮に伝え日本軍とも戦い、戦後その功績を称えられ朝鮮の王から金忠善の名を貰って帰化人となった、というものです。その後も女真族による侵略を撃退するなどの功績により、正二品の位階まで昇進しました。
韓国の大邱市郊外の友鹿里には、沙也可の後孫の一族が暮らしており、このシンポに来日した金在錫氏(沙也可14世孫)によると、現在その一族は17代、7500人から8000人いるそうです。
その出身地についてははっきりしませんが、作家の神坂次郎さんが、紀州雑賀衆の頭領、鈴木孫一郎など雑賀鉄砲衆が「沙也可」とする説を採り、歴史小説「海の伽倻琴」を発表、それがハングル訳され韓国でも出版されたことから、雑賀説が有力となっています。
10年前には、神坂次郎氏と二階俊博衆議院議員らが、大邱市郊外の友鹿里の一族の村を訪問、今回和歌山での日韓国際シンポジウム開催となったものです。
歓迎レセプション、顕彰碑の除幕式、シンポジウム…と、目からウロコの話ばかりで有意義な2日間でしたが、中でも東京から駆けつけた政治評論家、森田実氏が「沙也可は奇跡のような人で、その存在を最初に知ったとき本当の話かと思った。時の権力に反逆して、人生を全うし、かの地でその子孫が400年の歴史を生き残り、法務大臣を輩出するなど繁栄している。こんな時の権力者を諌めて信念を貫き通した人が日本人の中にいたということは、日本人は誇っていいし、秀吉と断固として戦った将軍が和歌山から出たとすれば、これは大きな財産だ。バチカンにもにた存在で、歴史と文化を基盤とした観光にも大きな存在になるのではないか」と訴えていたのが印象的でした。
シンポジウムの模様は、和歌山放送で今月21日午後8時から2時間にわたって特別番組で放送します。ぜひ多くの方に聞いていただきたい内容です。
□和歌山放送ニュース再録
◎「沙也可」日韓国際シンポジウム開催
豊臣秀吉の朝鮮出兵で戦い投降した紀州雑賀衆の頭領、鈴木孫一郎(すずき・まごいちろう)と同一人物とされ、作家の神坂次郎さんが歴史小説で描いた「沙也可・さやか」をテーマにした日韓国際シンポジウムが、きょう(13日)和歌山市のきのくに志学館で開かれました。
シンポジウムは、和歌山放送などの協賛で和歌山の観光を考える百人委員会が開いたもので、およそ100人が出席し、400年前の歴史上の人物を通して日本と韓国の友好を深めました。シンポジウムでは「海の伽倻琴・うみのかやごと」で沙也可を描いた神坂さんや、韓国の沙也加研究会会長の陳炳龍(ちん・ぴょんろん)さんらが講演しました。
この中で神坂さんは「出身校も雑賀小学校で、資料も徹底的に調べている。沙也可が雑賀衆ゆかりの人物であることは間違いない」などと述べました。また陳さんは「沙也可が誰で、出身地がどこかはまだはっきりしないが、韓国と日本の友好の架け橋になっている」などと述べました。
きょう(13日)はシンポジウムの前に、和歌山市の和歌浦東照宮で沙也可の顕彰碑の除幕式が行われました。
きようのシンポジウムの模様は、今月21日午後8時から和歌山放送で2時間にわたって特別番組で放送します。
(2010年11月13日(土) 17:25)